友だちグループ内で不倫が発覚した

あまり詳細に書くと、個人情報に抵触してしまうのでオブラートに包むが、私の仲の良い友人グループ内で不倫が発覚した。

片方は配偶者がいて、片方は独身。

そのグループでホームパーティをしたり、馴染みの店で落ち合ったり、ランチを食べたり、BBQを企画したりと、仲が良いと惚気られるほどの友人グループであった。まさかこのグループ内で不倫が起こるなんて夢にも思ってなかった。よく、「困ったことがあったら助け合おう」と話していたし、大人になってからできる友人の尊さについて酔っ払って話していたので、寝耳に水、青天の霹靂、藪から棒、虚をつかれる……予期せぬ出来事にまつわることわざが頭を駆け巡り、そして虚無が広がった。

この事を本人たちから聞いたわけではなく、周りまわって私の耳に入った。こういった不貞行為の前で、人の口には戸は立てらないのだ。不倫にまつわるありとあらゆるネット記事を検索した。共通しているのは、離婚は大抵のものを失うようだ。慰謝料、社会的信頼、そして友人。

あんなに無邪気に関わってた友だちが、何を考えているのか一瞬で分からなくなってしまった。相手の顔を思い出そうとすると、輪郭がぐにゃっと歪む。最近は顔も思い出せなくなる時もある。

とにかく悲しくて、やるせなくて、なんで、なんで、なんで……。
人の恋なんてどうでもいいのだが、なぜこんなにも心が落ち込むのか。自分の心の狭量の狭さが問題なのか、私は潔癖すぎるのか、なんで、なんで、なんで……。

どんなに考えても自分の心が整理できないため、まずは脳科学からアクセスした。
毎月の生理や、これから来るべき更年期と女性ホルモンの関係性などに興味があり、なんとなく不倫 ホルモンで検索したところ、これが私を和ませる第一歩になった。

この、銀座泰明クリニックの不倫の脳科学箇所が端的にまとまっていた。https://www.ginzataimei.com/knowledge/%E4%B8%8D%E5%80%AB%E3%81%AE%E8%84%B3%E7%A7%91%E5%AD%A6/

簡単だが、不倫や恋愛の脳の状態を把握し、さらに脳科学者の中野信子氏のまさしく『不倫』というタイトルの本も読んだ。
人間の不倫は至極当然というか、一夫多妻制には向いていない動物だということ、不倫をしてしまうホルモンを持つ個体がいること、なぜ不倫が許せないのか(日本人はフリーライダーに厳しい)、ということが淡々と書かれていて、不倫のメカニズムはある程度理解した。

それを踏まえて、私の気持ちはどこに置いておけばいいのだろうか。

次の一歩のために、今度は哲学書を手に取った。社会性動物として、ホルモンのメカニズムだけでは抑えきれない感情の部分を解決したかった。

たまたま見つけた『人生が変わる哲学の教科書』(著・小川仁志)のP59「理性と欲望」について カント先生の授業の項の中で、

つまり私は、行為の道徳性の実質的な根拠を、個々の人間の人格の尊厳性に求めているのです。行為の相手の人格の承認が、倫理的な善悪を語るための根本的な前提なのです。このように、道徳にかなった行為であると認められるためには、相手の人格が尊重されなければなりません。

ちなみに正直にいうと、この項目を深く理解はできていない。けど、今こんがらがっている何かのヒントになるかもしれない、と思い、カントにまつわる本を手に取ったが、やっぱり私には読み解けず、今の自分が求めているものとは違うのだ、と思いまた別の本を探した。
余談だが、新宿紀伊国屋書店の哲学・宗教コーナーの充実ぶりは圧巻だった。近日中にまた行きたい(今は東洋哲学が気になっている)

困ったなぁ、と、別の本屋でぼんやり背表紙を眺めていた時に見つけたのが、『愛するということ』(著・エーリッヒ・フロム、訳・鈴木晶)。私は恥ずかしながら、名著と呼ばれる本をあまり読んでいないことがコンプレックスなのだが、エーリッヒ・フロムもその中のひとつ。
でも、なんとなくこれだな、と思い手に取った。

新フロイト派のフロムが、愛する技術について綴った本は、時代錯誤な箇所(同性愛や母性愛、父性愛など)もあり、賛同できない部分はあれど、さまざまな言葉は私を慰めた。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。その中に「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。

ここで一回、脳が沸騰しかけた。恋は落ちるものであると言うのが世の常であったが、不倫もか? といううっすらとした疑問を吹っ飛ばしてくれた。元々何年も友人関係だった2人が、今更落ちるか? 「みずから踏み込み」起こした事柄であれば、先述の脳科学と共に腹落ちした。

最後、第四章 愛の修練では、愛する技術の修練について語っている。この中で、

愛の技術の修練には、「信じる」ことの修練が必要なのだ。

自分を「信じている」者だけが、他人にたいして誠実になれる。なぜなら、自分に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう」という確信がもてるからだ。
自身にたいする信念は、他人にたいして約束ができるための必須条件である。

この項を読んで、やっと自分の気持ちが言語化できた。

私は、信じていた2人の友人が不倫関係になったことで、2人を信じることができなくなったことが悲しいこと。
そして、私はこの件を経て、今、少しだけ人間不信だ。友人を作ること、好きな人を作ることが怖い。今度また同じようなことが起こったら、と思うと、自分のことが全く信じられない。
私から信じるという気持ちを奪っていった2人にものすごく怒っているんだな、と、こんな簡単なことに気がつくまでとても時間がかかった。

責任転嫁にもほどがあると言われればそれまでだが、自分の気持ちを傷つけた人に、どうしても優しくすることができない。

ずっと仲が良かったし、どうしても村八分のような扱いをしてしまうのが、心苦しく、自分の心の置き所を探していた。
でも、自分を気持ちを傷つけている人とは会えないし、会わない方がいい。お互いのために。ようやくそうやって前向きになれた。

今回をきっかけに、多様な本を読み自分の思考を読み解いていくことができ、そういた機会をもらったことは、本当に感謝している。この事がなかったら、読まなかった本ばかりを手に取った。

いつか許せる日は来るだろうか、多分、私の信じる気持ちが復活するまでは無理かな。